『花束みたいな恋をした』とカルチャーに浮かれる己の未熟さについて

 ネタバレしています。

 

 『花束みたいな恋をした』を観ました。なるべく他の人の感想を知る前に観たかったので、公開3日目に観ました。何故そこまで前のめり気味で観に行ったかというと、劇中で私の大好きな舞台『わたしの星』が出てくることを事前に知っていたからだ。私は菅田将暉さんでも有村架純さんでもなく、『わたしの星』のために観に行った。恋愛映画ということもあり、カップルで観に来た人も多くいた映画館で、ひとりドキドキしながら観た。『わたしの星』は主人公2人の心が離れつつある大事な場面で使われていた。私の部屋がそうであったように、彼らの部屋に『わたしの星』のポスターが貼られていた。確信に近い気持ちで、私は絹さんと三鷹ですれ違っていた。青い服の女性を見かけた記憶がある。2017年の夏を思い出した。

 

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 『花束みたいな恋をした』は若い男女の出会いから別れまでを描いた、ストレートなラブストーリーだ。学生気分だった2人が次第に大人になっていき、お互いがすれ違い、決定的に戻れない地点まで行き着いてしまう。その彼らの5年間を様々なカルチャーが彩っている(出てくる漫画や小説や映画その他諸々をカルチャーという言葉でしかまとめられないのは気持ち悪いけれど)。POPEYEのガールフレンド特集に出てくるカップルのPOPEYE的な生から死までを映画化したような作品だ。

 

 しかし肝心のラブストーリーに辿りつく前に私は胃もたれしてしまった。ラブストーリーを自分の中で消化する前に、彼らの人生にずっと寄り添い続けたカルチャーが天ぷらの衣のようにラブストーリーを包んでいて、そのこってりくどすぎるぐらいに羅列されたカルチャーに私はあてられてしまった。

 

 共感性羞恥心といっていいのか、彼らとカルチャーの関係性が細かく語られる度に、こちらも恥ずかしくなってしまう。彼らの本棚は、まさしく自分の本棚だった。今村夏子に小川洋子多和田葉子。たとえ映画の中だとしても、こんなに自分と趣味の合う人がいるのかと驚いたほどだ。そして恥ずかしさと共に湧き上がる嫌悪感。主人公2人のいけ好かなさ、自らのセンスを疑っていない感じは、まさしく私も同類であり同族嫌悪しかなかった。

 

 おそらく、もう一度観たとしても、私はラブストーリーに辿りつかないだろう。私にとって恋愛が別世界の話ということもあるが、好きなことに熱中して大人になれていない、いつまでも劇中中盤の絹のような自分なので、自らの未熟さを突きつけられて思考停止してしまうだからだ。麦が目指したようなまっとうな大人になることが今は全てではないとわかっていても、大人になれない自分はそこに常に劣等感を抱いてしまう。センスが良いと当人達が思っている部屋が、至る所にキャラクターのシールが貼られた部屋に変わっていくことについて、自分自身に関しては全く想像できない。何度観たとしても、明るくなった映画館で私は呻いてしまうに違いない。

 

 私はこの映画をうまく受けとめることが出来ない。いい映画だと思うし、好きか嫌いかと言われたら好きだけれど(好きですよ)、怒りや悲しみや諦め、沢山の感情が渦巻いて、どうにも心がざわついて仕方ない。