回る君達は光となる

 11月2日に博多なないろ公演、チームパープルとチームレッドの公演を見ました。新しいセットリストになった博多なないろ2期において、その変更によってさらに好きになったのがこの2チームです。パープルもレッドも新たに追加された曲がどちらも自分好みで、本当に見ていて楽しい。

 

 私はアイドルが輪になって踊るシーンが大好きです。アイドルだけの閉じた空間、完全にオタクを輪の外に追い出した花園としてのステージ。輪になってメンバー同士がアイコンタクトしている時の、お互いを信頼しあっている空気が好きです。あの瞬間に出る笑みはアイドル同士、仲間だからこその信頼感があります。

 

 とはいえ、アイドルはファンがいなくては成り立たないとはよく言われることです。それはわかっているのですが、オタクの声が届かない彼女達だけの世界だけを見たい欲があります。その一方で、自分もアイドルからのレスを欲しがってしまったり、私個人を認識されたいといった欲もあります。アイドルだけの世界を希求しつつ、欲深い自身と向き合う日々です。

 

 博多なないろ公演のパープルは『初恋至上主義』のサビで輪になって回ります。その輪の雰囲気が素晴らしい。勢いのある輪の回転が、その遠心力でもってパープルの輝きを力強く放ちます。見ている私は、このままずっと回り続けてほしいと、叶うことのない願いを胸に抱いてしまいます。その『初恋至上主義』が素晴らしすぎて大団円みたいなフィナーレを迎えてからの『早送りカレンダー』なので、こんなに楽しい時間がまだ続くのかと幸せのオーバーフローが起こります。

 

 レッドも回転こそしませんが、『僕だけのSecret time』で輪になります。仕方のないことですが、輪になると客席に背を向けなければならないメンバーが出てきます。なので輪の雰囲気はこちらに顔を見せているメンバーからしか窺い知れない。『僕だけのSecret time』では客席から顔が見えるメンバーは松岡はなさんです。この時のはなちゃんの表情が毎回最高に可愛い。この瞬間だけステージが楽屋のような雰囲気になります。そこにはお互いを信頼しあっているからこその笑顔がある。このはなちゃんの笑顔を見ると、ずっと幸せでいてほしいと願ってしまいます。

 

 そして私がレッドを大好きなのは、何よりもアンコールで歌われる『ハッピーエンド』が素晴らしいからです。セットリストを考えた下野由貴さんによると、アンコールで歌いたい曲を運営に提出しても、ことごとく他の公演で使われていて却下、悩んだ末の『ハッピーエンド』だったらしいのですが、この選曲が素晴らしい。この日、私はちょうどセンターゼロズレの席で見ていて、ステージにまっすぐ視線を向けると松岡はなさんが歌っていました。『ハッピーエンド』の最後で微笑むはなさんが、歌詞と相まって笑顔なのに切なそうで、それがこの場の出会いをとても貴重なものと感じさせてくれて、今この瞬間を大切に受け取らなければとステージを目に焼き付けました。

 

 しかも今、『ハッピーエンド』に新しい、しかし悲しい輝きが生まれつつあります。『ハッピーエンド』はそのタイトルの通り、終わりというより終わり方を歌った曲です。始まった物語にどう幕を引くのか、そこに焦点を当てた曲です。この日も『ハッピーエンド』で締めくくられ、満ち足りた気持ちで公演が終わろうとした最後、清水梨央さんからHKT48卒業の発表がありました。幸せの頂点から一気に急転落下、なんとか平静を保つのが精一杯でした。チームレッドを見続けて、やっと清水梨央さんの良さを気付き始めたところだったので寂しい。言葉を失ってしまった劇場からの帰り道、頭の中ではずっと『ハッピーエンド』のサビがリフレインしていました。

 

 「涙もあっていいけどちゃんと笑顔で終わらせてほしい」と歌う『ハッピーエンド』は、図らずもチームレッドと清水梨央さんのための曲となってしまいました。偶然というには出来すぎな選曲です。春のチームグリーン小川紗奈さんと『大好きな人』を思い出します。私はなんだかんだと別れの曲を好きになってしまうのですが、いざ現実の別れを前にすると、曲が好きとか言っていられる場合ではありません。これからは『ハッピーエンド』を聴く度に、この日を思い出す予感がします。

 

 幸せと悲しみが同居した公演でした。輪になり光り輝く彼女達から、もうすぐひとつの星が離れることを考えると、別れはまだ先だと思っていても悲しい。しかしそこには輪が生んだ遠心力があるはずです。どこよりも遠くに行ける力を得ているだろう清水梨央さんの勢いを、あと何回見れるのかわからないけれど、遠くから見守ろうと思います。素晴らしい公演をありがとうございました。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
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鮮やかな対比として浮かび上がったブルーとオレンジ

 少し昔の話になりますが、10月26日にHKT48の博多なないろ公演、チームブルーとオレンジの公演を見ました。今回はその感想です。久しぶりにHKTの公演を見ました。チームブルーに至っては、最後にブルーを見たのは9月、村重さんの卒業発表で驚いた公演以来ですから約1ヶ月ぶりです。ご無沙汰しておりました。この公演は自分の見方も含めて、両チームの違いがかなり表れた公演だったので劇場で見れてよかったと思います(DMMで見ただけならこれも書かなかった)。

 

 映像表現の用語で「ティール&オレンジ」というものがあります。

 

ティール&オレンジ」とは、写真を青緑(teal)とオレンジ色に偏らせる技です。

色作りの考え方としては、ひとの肌などが含まれる中間から明るい領域をオレンジ色に、暗い領域を青緑色に偏らせます。これにより、人物は暖かみのある肌の色、シャドウはその反対の色になるため、人物の存在感が増すというわけです。

helpx.adobe.com

 

 

作例を見ると、所謂映画っぽい雰囲気になります。

 

 何故ティール&オレンジという言葉を出したかというと、今回見たブルーとオレンジの博多なないろ公演がまさにティール&オレンジのような相互に引き立たせる関係でパフォーマンスされていて、両者ともに素晴らしかったからです。

 

 先にチームオレンジについて書くと、まずそのダンスに驚きました。オレンジは過去に何回も見たことがあるし、上野遥さん選曲によるダンスが激しめなセットリストで、以前見た時もパフォーマンス重視のチームという印象はありました。しかし今回見て、これまで見て感じたよりもさらに上のレベルの高さを感じて、単純にすごいと感嘆してしまいました。

 

 この公演を私は幸運にもセンターゼロズレの席で見ることが出来ました。この日は上野遥さんの生誕祭だったので、上野さん推しには申し訳ないぐらい良い席でした。ちょうどステージの端から端までがぴったり視界に収まるポジション。そこから見るチームオレンジのパフォーマンスは圧巻でした。単にダンスが揃っているを超えて、腕の角度であったり動かすタイミングまで集中力が行き届いているパフォーマンスでした。7人が1列になって踊っていると非常にシンメトリーで、見ていて爽快でした。

 

 公演は先にチームブルーが出て、後半がチームオレンジでした。オレンジのあまりに統率されたパフォーマンスに衝撃を受けて、あれ? そういえばブルーはどうだったんだ? と直前の時間を思い出そうとしたのですが、悲しいことにブルーのダンスが揃っていたとかいなかったとか全く覚えていません。私は豊永阿紀さんが好きなので、ブルーのほとんどの時間を豊永さんを見ることに費やして、全体を見ていなかったのです。

 

 豊永阿紀さんを好きでいることが、巡り巡ってチームとしての公演の良さを見逃しているのではないか、そんな疑問が湧きました。豊永さんを見ていられるのだからそれでよいのではないかと言われればそれはそうなんですが、なんとももどかしい。ステージは彼女一人で作っているわけではないので、全体を見ていないのは片手落ちではないでしょうか。

 

 チームブルーは村重杏奈さんや田島芽瑠さんに代表されるように、HKT48の中でも特に個性の強いメンバーで構成されています。その個性溢れるメンバーがぶつかりあって生じる火花のような輝きがチームブルーの魅力だと私は思っています。それぞれがやりたいようにやって、歪でも爆発的な光を放つのがブルーです。なのでブルーを見るときは個にフォーカスして見ています。

 

 対してチームオレンジは、飛び抜けて好きというメンバーがいないこともありますが、よりステージ全体を見る感じです。それによってオレンジのチームとしてのパフォーマンスのすごさに気付けました。またオレンジのすごさに気付けた理由のひとつに、座席がとても良かったことがあります。少しでもセンターからずれた席だったらここまでオレンジのパフォーマンスに圧倒されなかったと思います。受け取る側の環境や体調によって評価が大きく変わってしまう、これはよい一例です。

 

 このように博多なないろ公演は、チームによって見方を変える、もしくは変わらざるを得ないことによって新しい魅力を発見出来る良さがあります。どのチームを見てもそれぞれの良さに気付けるように自分が変化していくことで、何度も見た対象でも新たに魅力に気付けることもあり、その過程が楽しいです。

 

 そして明らかに去年から今年春にかけての博多なないろ公演よりも、今の自分はHKT48に対する解像度が高くなっています。以前よりも確実に楽しんでいる自分がいます。見続けるとはこういうことなんだなと実感している2021年秋です。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
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写真を選ぶ悩ましさについて

 久しぶりに一眼レフで写真を撮りました。写真を撮ること自体は好きなのですが、ここ2、3年の私はiPhoneで撮るかフィルムのコンパクトカメラで撮ることが多く、それらに比べてかなり重たいデジタル一眼レフは持ち歩くことがほとんどありませんでした。重いのもあるし、画像を取り込んだりするのも面倒ですしね。そんな自分が久しぶりにデジカメで撮ろうと思ったきっかけは、The Creators 2021というイベントでHKT48を撮れるかもしれないと考えたからです。去年のそのイベントでのHKT48は撮影出来たので、今年も撮影出来るだろうとデジカメを準備しました。数年ぶりに充電したバッテリーが全然100%にならなくて寿命かと不安になりましたが。

 

 結局イベント当日に撮影禁止のアナウンスがあってHKT48は撮れなかったのですが、デジカメモチベが高まっているところだったので、それでも何か撮りたいなあと思っていたら、Jリーグアビスパ福岡横浜FCの試合に豊永阿紀さんがゲストでやってくることを知り、こちらは過去の試合から撮れることがわかっていたので、デジカメを持ってベススタまで行ってきました。スタジアムに入場してから自分の座席エリアが撮影には向いていない席だったのがわかり、結果としては豊永さんを撮れるには撮れましたが、納得出来る撮影だったかというと悔しさの残るものでした(自分のミスです)。試合は後半ATにアビスパが同点ゴールを決めて、勝てはしなかったけど盛り上がって面白かったです。

 

 帰宅して写真をチェックして、インターネットにアップ出来そうなものを探したのですが(基準がそこなのはそもそもどうなのかとは思いますが)、撮れるタイミングも少なかったとはいえ、まあ撮れ高が少ない…。それでも数枚、これならというものを選びました。しかし自分でも完璧に納得のいく写真ではなくて、このようにちょっとでも躊躇が伴う写真をSNSにアップすると必ず後悔するのは過去の経験からわかっているので、ツイッターのように拡散しやすいSNSには投稿せずに、インスグラムのストーリーにだけアップしました。

 

 ストーリーでは豊永阿紀さんに@を付けてアップしました。ありがたいことに豊永さんはファンのストーリーもチェックしてくれるので、あまり大っぴらに公開したくはないけど、豊永さんには伝えたい気持ちはあって@を付けました(しかし自分がもしアイドルだったらファンのストーリーでも怖くて見れないだろうから、豊永さんの胆力というか信頼してくれてる感じは本当にうれしいです)。

 

 ただ私はそのストーリーに、ツイッターに上げるほどの自信がないと書いたのですが、この点についてアップした後もずっと考えていて、ずっともやもやしたまま終わらせるのもよくないと思い、いっそ言語化しようと、それがこのブログを書いた次第です。

 

 もやもやの大きな部分を占めているのは、写真の公開非公開を自分が判断していいのかということです。ジャッジすることが被写体を否定しているようで心苦しくなりました。これは半目だからちょっとなあと思うことや(これは仕方ない)、取捨選択することが私の価値観で相手を削っているようで、そう感じることで自分自身も削られてしんどかった(最近ちょっと気にしすぎなのかもしれませんが)。だからといって、どんな瞬間の推しも可愛いでしょ、と推しに対する盲目的な愛でもって何でもアップしてしまうのも違うと思うし難しいところです。

 

 またツイッターにアップしないことに対して、正確には私が撮る豊永さんの写真がアップするクオリティに達していない、つまり私の技術的な問題でアップしないのですが、なんとなく豊永さんに問題があるように受け取られてしまいそうで、そこがもどかしいです。しかしそう感じてしまうのは、本心ではそのように思っているから不安があるのではという疑いもあります。自分が豊永さんをどう見ているのか問われています。

 

 とか考えても、アイドルは日々SNSのいいね数などでどんな自分が好まれているのかジャッジされているわけでもあり、慣れているのだからいちいちファンが気にすることではないのではと思いつつも、慣れでスルーしてはいけないはずです。

 

 以前あるアイドルの写真を公開したら、後で当人からその写真の表情が自分的には好きではないと伝えられ、申し訳ないなと削除したことがあります。ただその写真も私から見たらいい表情だなと思っていたので、判断基準は人によるわけです。また乃木坂46が乃木坂工事中の企画で、メンバー自身の納得のいかない写真を公開したことがあり、プロフィール写真やCDの宣伝などでがっつり使われていた写真もダメ出しされていて、被写体にとっても作り手側にとってもつらい回がありました。本当に難しい。

 

 こちらがいちばん安心出来るのは撮影会で一般的な、公開したい写真が公開可能かどうか被写体側に確認する方法です。しかしHKTがいちオタクの野良撮影の問い合わせに対応するのかと考えたらしないでしょうし、本人も返答出来ないでしょう。こちらの良心に任せるしかない。そこまで悩むなら公開しなくていいじゃないと思うところですが、その一方で写真を褒められたいという欲もあります。推しの良さを広めたいといった模範的なオタクとは異なる、とても利己的に生きている自分なので、どこでその欲望と折り合いをつけるか難しいです。

 

 数年前のよくアイドルの写真を撮っていた頃はこのような悩みもなかった(気がします)。何故今回ここまで考え込むようになったかというと、時代が変化して自分もその流れを学んでいることもあるけれど、それよりも相手が豊永阿紀さんということが大きいです。アイドルとファンの関係であっても、豊永さんの近づき方は積極的過ぎるので、こちらもより丁寧に向き合わなければいけないと気を引き締めます(私から見たら自ら傷つきに行っているのではと時折心配になります)。豊永さんとの距離感の近さで戸惑うなら、じゃあ遠ければいいのかといえばそういうことではないわけで、どんな距離の関係でも謙虚でなければいけません。

 

 豊永さんとの距離の近さと書きましたが、実際近いかというと、近くはないです。現状のHKT48に関しては一方通行のコミュニケーションのみなので常に不安があります。相手に届かない壁打ちの愛ならともかく、届いているかもしれないが反応がわからないので不安です。しかも私はコロナ禍以降のリアルなコミュニケーションを断たれた後の新規ファンなので手応えがわからない。

 

 HKT48を好きになって1年、メンバーと会話出来たのはオンラインお話し会での豊永さん1回のみという状況で、よく自分は好きでいられ続けているなと思います。昨今の距離の近いアイドルに慣れきった自分がここまで我慢出来ていることに自分自身驚いています。ここまでくると次に会える時の怖さもあります。一方通行のコミュニケーションが実はあらぬ方向への暴走だったりする不安もあり、実際これまでの自分の行いが試される機会であった豊永さんとの初めてのオンラインお話し会はとても緊張しました。

 

 話が写真とは違う方向に進んでしまったので写真に戻すと、理想としては良い関係を築けた上で写真を撮りたいですね。そうなれば悩むこともなくなるはずです。豊永さん自身が好きな豊永さんを私も理解して好きになれたらと思っています。そしていつかは豊永さんをフィルムで撮りたい。そんな日が訪れることを願いながら、遠くから見守る日々がまだもう少し続くのでしょう。

2021年11月

 11月になりました。ついこのあいだ夏が終わったと思ったらもう11月ということに驚きます。スタバでも毎年恒例のジンジャーブレッドラテが飲める季節となりました。鈴の音が聞こえる日も近づいてきています。

 

 先週末は衆議院議員選挙がありました。私も投票に行きました。自分の周囲は投票率150%ぐらいで全員投票している感じでしたが、現実は有権者の約半分しか投票していなくて、自分の交友関係やSNSでフォローしている人達が、自分と似通った行動をしている人々で構成されていることを改めて実感しました(それは主義主張が同じという意味ではなく、投票には行くぐらいの政治への参加意思があるという意味で)。

 

 SNSではよくある現象です。しかしそれでも以前とは変わったなと思う点があります。これまで私の観測範囲での政治への言及は知り合いだったり普段から政治的なアカウントだけでした(政治的の意味も考えないといけませんが)。それがここにきてただ単に私が好きでフォローしているアイドルやモデル、女優のアカウントからも投票に行くことを呼びかけたり投票したことを公表する投稿が増えた感触があります。この辺りは秋元才加さんや和田彩花さんなどの影響が大きいと思います。

 

 もちろんこれもフィルターバブルです。政治に関心を持つ有名人を選んで私がフォローしている可能性があります。投票したことをわざわざ表明する少数派のコミュニティに自分は属しているだけかもしれません。私の周りは投票したことを公にしがちなので(どこに投票したかは置いといて)、その公表すべきな雰囲気もどうなのかなと思いますが。

 

 今は一部ですが若者が政治を変えていこうと行動していることに、それは困難なことだけど希望を感じます(これも観測範囲の問題でしょうが)。調査によると若い人ほど保守的だそうで、若年層の投票率が上がると、もしかすると私の望む社会とは異なる未来が待っているかもしれませんが、それでも投票率が上がるのは良いことだと思います。

 

 先日の衆議院議員選挙の投票日当日、これから誰かと会うのかお洒落した若者が投票所で私の前に並んでいました。何か予定があったとしても、その前に投票だけはしておこうという意思を感じて頼もしさを感じました(どこから目線?)。

 

 私なんか若い頃は投票も行ったり行かなかったりで、あまり選挙に関心はありませんでした。欠かさず投票するようになったのは30歳を過ぎてからです。若い時の政治への無関心は自分もそうだったので、今の若者に投票に行こうと声高に言えない。そんな自分なので、好きなアイドル達が投票したことを公表するのは、自らを省みてすごいことだなと尊敬の念しかありません。

 

 一気に社会が変わるわけではないし、地道な努力の積み重ねです。前回前々回の選挙よりも投票率が上がったことを希望と捉えることとして、選挙の期間だけでなく普段の生活から今よりも生きやすい社会を目指すことが大切ですね。

福岡で暮らし始めて1年

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 福岡で暮らし始めて1年が経ちました。いろんなことがあったけど過ぎてみればあっという間。いちばんの驚きはまだアイドルオタクを続けていることです。まさかHKT48にハマるとは移住前は想像していませんでした。そんな福岡に住んで1年経ったタイミングで豊永阿紀さんが出演された舞台『しゃーSHE♀彼女』を観て考えてしまいました。この作品はタイトルにも方言が使われている通り、舞台上では博多弁が発せられる場面が多いです(博多弁で合ってますよね!?)。その博多弁が未だにハッとするほど新鮮に聞こえてきて、もちろん福岡は自分が生まれ育った土地ではないので当然ですが、ちょっと住んだぐらいでは全然まだ余所者だと突きつけられた感じです。自分の普段の生活があまり博多弁と接しない生活なのもあるけれど、舞台から聞こえてくる博多弁に戸惑ってしまって、まだ福岡に馴染めてないのだなと実感しました。地元を離れて東京に住んでいた時は、自分を殊更に東京生まれの人と違うと意識することはなかったし、様々な土地からやってきた人が集まった大都市というのが東京のイメージだったので、街からの疎外感は希薄でした(だからこそ皆が東京を生きやすいと思うのでしょうが)。疎外感というほどのものではないけれど、福岡はやはり東京とは違いますね。もっと福岡に馴染むように頑張ろうと思った福岡2年目の始まりです。

『したたか女』についてずっと考えている

kiyc.hateblo.jp

 

 

 先週久しぶりにブログを書いて、自分で書いておきながら、創作物での髪色によるカテゴライズはこじつけに近いなと自己嫌悪気味になってしまった。自分で信じてもいないことを、舞台を観ている間だけは信じて観るように自分を仕向ける。それは簡単だけど、こうやって後で文章に残すと負の記録のような気がして釈然としません。

 

 どうして自分の思考(信念というほど確固としたものではないけれど)と、作品の見方にズレが出てしまうのか。それは作品の根底を成す意識が今の世の中の流れとはズレているからではと私は思います。

 

 この一週間私は『したたか女』についてずっと考えていました。どうして面倒くさい女性の話が女同士の争いになってしまったのだろうか(『しゃーSHE♀彼女』には女同士の争いでない話もありますが)。どうして彼女達は争わなければならなかったのか。男の浮気に対して、友人同士であったために彼らは友情を取るか男を取るかの選択を迫られてしまった。男を選んだ彼らは、結局男に振り回されてしまっています。もし彼女らが見ず知らずの他人だったら、戦うべき相手が男になっていたかもしれない。それでも男を取っていたかもしれませんが。

 

 別にシスターフッド的な連帯を見たかったとかそういうわけでもないけれど、描き方に古さを感じてしまって、今は2021年なんだけどなとしんみりしてしまった。もちろん自分の古い感覚もアップデートされているかは心許ないです(このアップデートという単語も最近は使われ過ぎて疑いを持たれてますが)。それでも誰もが生きやすい社会を目指そうと努めたい気持ちはあるし、そのような社会を目指す流れに賛同しています。その潮流を意識している中で、女性達が男を取り合うもしくは男に振り回される女性達、といった旧態依然のストーリーを持ち出されるとうーん…今見たいのはこれじゃないとなってしまいます。

 

 まあ愚痴ですねはい。何か自分は見落としているのだろうか。もっと違う見方があれば知りたいです。

豊永阿紀さんの新しい髪色がもたらす演出効果と偏ったイメージの炙り出し

 公演は終わりましたが一応書いておくとネタバレしています。

 

www.syaashe-kanojyo.com

 

 

 福岡市唐人町商店街の甘棠館Show劇場で10月7日から10日にかけて上演された舞台『しゃーSHE♀彼女』を観ました。しゃーしい、福岡の方言で面倒くさいを意味する言葉がタイトルに掲げられた本作は、恋愛をメインに様々な場面でのしゃーしい女性が巻き起こす騒動を描いた演劇作品です。オムニバス形式となっていて、しゃーしい女性が出てくる相互に話の関連はない小品が8本まとめて上演されます。

 

 舞台の話に入る前に、遡って先月のある出来事について書かなければなりません。この作品に出演するHKT48豊永阿紀さんがこれまでの黒髪から髪をオレンジ色に染めたのです。その時のブログを読むと、初めて髪を染めたとのこと。きっかけのひとつとして「上演される舞台への準備を機に」と書かれており、ブログを読んだ当時、これは気持ちの問題で心機一転ぐらいの感覚なのだろうと想像していました(しかし今読み返すとブログ後半では「仕事で必要性を感じたとき」とも書かれてますね)。10月になり、舞台を観た現在は、この作品において豊永さんの髪色はかなり重要ではないかと考えています(私は豊永さんの出るBチームの公演を観ました)。

 

ameblo.jp

 

 

 それは最後の演目においてでした。オムニバス形式の本作品の最後を締めくくるのは女性5人組の話『したたか女』です。この話は5人グループのある女性の彼氏がグループ内の他の女性と浮気しまくり、それによって生じるヒリヒリした人間関係を描いています。まあ大概男も悪い。

 

 話が始まってまず気付いたのは、舞台上にいる5人の女性のうち4人が黒髪ということです(舞台上に男は出ません)。20代ぐらいの女性が5人集まって、その中の4人もが黒髪というのはどのような関係の集まりなのだろうかと疑問が湧きます。若い人は誰しも髪を染めるものと考えるのは短絡的かもしれませんが、それにしてもこのグループを見た時の第一印象はなんか地味でした。そこに唯一の派手な髪色としての登場人物、豊永阿紀さん演じるちひろがいます。ぱっと見、グループ内では完全にチャラい女の役割を任されています(豊永さんがいるから黒髪も目立つということもあると思います)。

 

 話が進むとやはりといった感じで、グループの女性(中山理愛さん)の彼氏がちひろと浮気していることが発覚します。あからさまに派手な女が派手な交友関係を繰り広げています。

 

 途中の流れを飛ばして結末をネタバレすると、友人の彼氏と寝ていたちひろもやばいが、それまでずっと傍観者だった山津彩花さん演じるともよも同様に同じ男と浮気していて、その場はそれこそしたたかに隠し通せると思っていたが最後の最後でさらにしたたかな女にバレる形で終わります(この最後にバレる女性は私が観た中で1回だけ違う人でしたが基本的にともよがバレる)。

 

 彼氏のLINEを覗き見て、ちひろとの浮気を発見した人間が他の女との浮気も見逃すはずはないので、まずちひろを告発したのは、そうすればともよもボロを出すはずだと想定してのことで、結構怖い最後の流れはやはり計画的に仕組んだものでしょう。

 

 髪色に注目して『したたか女』をまとめると、髪の色が派手な女性だから行動も派手なわけではなく、黒髪だろうがなんだろうがやばい奴はやばい、となります(ついやばいと書いてしまいましたがこの舞台はしゃーしいよりもやばい怖いのほうが先に来るのは私が福岡出身ではないから?)。今時髪の色で人を判断するほど鈍感な人はいないかと思いますが、それでも髪の色にただの色以上の意味を持たせているコミュニティは多いと思われ、私もそのひとつ(アイドル)に属しています。本作はそのようなコミュニティに由来する思い込みを利用して、(少なくとも私に関しては)オチの意外性を高めています。

 

 では私にはどのような思い込みがあったのか。それは黒髪に託された清純なイメージです。とはいっても実際にそんなイメージは信じていませんが、そういうイメージが今も存在すると認識していますし、時と場合によってはそのイメージを信じる体で向き合うこともあるぐらいの距離感です。

 

 一般社会や他のカルチャージャンルはともかくとして、アイドルというジャンルはとかく黒髪にこだわる人がアイドル側(運営も含む)にもファン側にも多い気がします(48系だけ?)。NMB48が『絶滅黒髪少女』というストレートな黒髪テーマの曲を歌ったように、黒髪に対して強い幻想が存在します(今はどうなんでしょうか)。黒髪は清純であるといったイメージ(ここでいう清純とは性格が擦れていないぐらいの定義です)は、裏を返せば髪を染めたら大人になったという意味です(アイドル黒髪問題はだいたいが年齢の問題です)。この初めて髪を染めるタイミングに、アイドルオタクは大変厳しいと私は感じます。好きなようにすればいいじゃない。整形とどこが違うのよ(ここで価値観の戦争が起こる)。

 

 このような黒髪に意味を持たせすぎたジャンルでオタクをやっていると、最終的に黒髪は単なる記号に見えてきます。そのような視点で『したたか女』を観ると、5人のうちの黒髪4人は清純な人間、つまりしゃーしい女性には分類されません。実際黒髪清純イメージに拘りがない自分でも、この場面でこの配役を見せられると、髪の色に意味を持たせた見方が自然なのではないかと思ってしまいます。そのアイドルオタク的に偏った見方で舞台を観る人に対して、その偏見を炙り出し逆手に取って、人は見かけじゃないよと諫めるのが本作の面白さです。

 

 また豊永阿紀さん演じるちひろの捨て台詞がかなりエグいので、観客はここがクライマックスだと勘違いしてしまうのも、最後の大ネタのぶっ込み具合に相乗効果を与えています。ラスボスのともよも、男に関して過去にしがみついていると受け取れる台詞を言っていて、これも注意を逸らす意味で有効でした。ともよ役の山津彩花さんの前に出過ぎない演技も複数回観るとさすがだなと思えてきます。

 

 最後に。劇中の役に対して派手な女呼ばわりしてしまった豊永阿紀さんですが、私は今の豊永さんも大好きです。これを書きながらも、自分の力量不足で今の豊永さんの髪色を批判しているように読み取られるのではないかと不安です。結局ちひろは、見た目はギャルだけど実はいい奴、というよくあるタイプでもなさそうですしね。明るい髪色の豊永さんは好きですが、ちひろは批判的に観ることをうまく伝えるのが難しい。

 

 豊永さんの魅力は自分自身を好きでいるために変化していくことを躊躇わないところだと思うので、秋の夕焼け色のような今の豊永さんも大好きです。これからも自身の信じる方向へ突き進んでいってほしい。ただ私が思う他の魅力のひとつに、豊永さんは秘密を抱えることを美しいと信じているような部分があります。それが今回の作品の悪女のような役にうまくハマったのではないかと感じて、役者と演じる役は別人だと思っていてもなんだか複雑です。

 

 以上のように、『したたか女』において豊永阿紀さんの新しい髪色がアイドルオタク的観客の思い込みを誘発し、その思い込みを逆手に取った結末とすることで作品に単なる驚きのオチ以上の面白さを与えたと言えます。この舞台に関して、豊永さんが髪を染めたのは成功だったと思います。そして舞台関係なく、豊永さんが髪を染めたことは、変化を恐れない意思を示すこれ以上ない証となって彼女だけの光を発しています。それはとても幸福で、私は眩しさで目を細めます。

 

 

 

ameblo.jp