「推し」という言葉について、私は推していない

 そろそろ自分の気持ちを整理、言語化しておかないと流れに呑み込まれるなと感じたのでここに書き留めておきます(最初に思っていたより長文になって引いている)。

 

 「推し」という単語がポピュラーになってきた。どこもかしこも「推し」だ。しかし私は「推し」の単語自体に距離を置いている。なるべく使わないようにしている。自分はアイドルオタクで、アイドルが好きではあるが、「推し」ているつもりはないからだ。

 

 ただ「推し」が使い易いのはわかっているので、誰かとコミュニケーションしなければいけない場面では相手に合わせるために使ってしまう。本当は「推し」という単語が苦手なんですけどとか注釈したいのを我慢しても、今は使うメリットのほうが大きいように思う。

 

 いつから「推し」を目にするようになったのか。もうすぐ映画が公開される『あの頃。』に関連して、『あの頃。』の時代は「推し」という言葉はなかったのではないか、そんな意見をいくつか目にした。これは観測範囲の違いもあるだろうけど、私も「推し」という2文字だけの単語はなかった気がする。しかし「推し」はなかったが、「推しメン」や「1推し2推し」という単語はあったし私も使っていた。そのような小さな違いしかないので、もしかして自分の知らないところでは「推し」が使われていたかもしれない。全然知らないけれど、二次元界隈などではとうの昔から「推し」が使われていたかもしれない。

 

 私が「推し」という単語を頻繁に目にするようになったのは、数年前、私が若手俳優オタクのブログをよく読んでいた頃だ。それは若手俳優その人に関するブログでもなく、どのブログも若手俳優のオタクの生態を記した自分語りのようなブログだった(自分がそういうのを好んで読んでいただけです)。若手と付いているように、まだ人気が出ていない俳優も多く、そのような俳優の界隈は小さく、オタクが特定されやすいらしい。なので特定を避けるために、自分の好きな俳優の名前を隠して「推し」と表現していた。自分の推している俳優の名を隠してまで何かをアピールしたい(それは自慢だったり愚痴だったり様々)、その屈折した欲望に興味を持ってよく読んでいた。

 

 「推し」という単語を使うには第三者が必要だ。誰かに伝えるために「推し」を使う。結局私は、誰かに伝えなくてもいいと思っているから「推し」の必要性を感じていない。私が書くブログも、単に自分自身の記録のためだし、ほとんど壁打ちだ。私が何かを好きであることは書きたいが、好きな何かを広めたいみたいな気持ちはない。そこに第三者はいない(稀にそうではない記事はありますが)。

 

 昔から私のアイドルとの向き合い方は一対一だ。私とあなた(アイドル)しかいない。極論を言うと、あなたと向き合っているときの私にはアイドルはあなたしかいない(だからアイドルの握手会などで他のアイドルの話題も本当は出したくない)。みんなで応援しようみたいな気持ちもない。社会性のない人間が世間の荒波に溺れそうになりながら辿り着いた末のアイドルオタクなので、趣味ぐらい個人で自由にやりたい。オタク同士たまたま同じ方向を向くにしても、敢えて協力してということはない。自分が対象を好きなこと、それだけで十分だと私は考えている。

 

 したがって第三者はいないと考えている私には「推し」を使う場面がない。たとえあったとしても、そこで使うのは「推し」ではなく好きな対象そのものの名前であってよい。推しが尊いのではなく◯◯さんが尊いのだ。「推し」で匿名化することで誰でも話が通じるようになるのはいいかもしれないが、オタクの熱量が漂白されたようでもあり寂しくなる。

 

 自分で書いていても自分が面倒くさいなと思うし、オールドスタイルのアイドルオタクなのは自覚している。しかしカジュアルに「私の推しは~」みたいに話せるほど軽くはなれない。個人的に、アイドルを好きなことはもっとドロドロしている。いや、私は軽く使っていないという人ももちろんいるだろうけど、ポピュラーになればなるほどそこには軽薄さがつきまとうし、自分はその軽さから距離を置きたい。

 

 とはいっても「推し」が使い易いのは認識していて自分もたまに使ってしまうし、複雑だ。おそらく時間の問題で、私もカジュアルに「推し」を使う日が来るんじゃないかなと予感している。そうなった時に葛藤があったことを忘れないために今ここで記録しておきました。