豊永阿紀さんと懐かしさについて

 何もない時間、何をしてもよい時間にHKT48豊永阿紀さんについて考えを巡らしていると、懐かしい記憶がふと思い出される。懐かしい記憶といっても、それは現実の記憶だけど限りなく幻想の世界に近しい記憶だ。思い出というほどでもなくただの風景、空気、温度、光といった感じで、それは記憶としか言いようがない。以前もそのような記憶がふと甦ることがあったけれど、豊永さんからはその記憶を強く引き寄せる不思議な雰囲気があることに最近気付いた。

 

 思い出すのは主に中学生ぐらいの時の記憶で、友達と遊んだ後の春の夜の生温い空気の少し浮かれている帰り道とか、誰もいない夏の午後の田んぼ道を自転車でゆっくり走っている時の静けさとか、季節と思春期が作り出した、思い出しても二度と経験出来ないセンチメンタルな記憶だ。それは私を感傷的に、心穏やかにさせてくれる。現実だけど幻のような記憶は当時観た映画ともシンクロしていて、なんだか本当に夢現つの風景でもある。その映画は『耳をすませば』で、初めて映画館でリアルタイムで観たジブリ映画だ。

 

 豊永さんをきっかけに思い出す、豊永さんとは全く関係ない私だけの記憶は、『耳をすませば』の世界観が浸食していて少し現実離れしたフィルターが掛かったかのようだ。

 

 『耳をすませば』は完全にファンタジーでもなく、現実世界と地続きのファンタジーだ。関東平野の端っこの真っ平らな街で生まれ育った私には、この映画の舞台となった坂の多い街がとても魅力的に映り、調べたらその街は東京の聖蹟桜ヶ丘だとわかって、おかげで東京で暮らしたいと憧れるようになった。それと共に画家の井上直久が描くイバラードがベースとなった主人公雫が作る劇中世界も素晴らしくて、話の内容よりも映画の舞台や映画の中の世界に引き込まれた覚えがある。

 

 もちろん豊永さんは雫ではないけれど、劇はじで脚本を書く豊永さんは雫と同じく世界の作り手でもあり、安易に二人を重ねてしまいそうになる。そう考えれば考えるほど、豊永さんは自分の世界をたくさん持っていて、いろいろな世界を軽やかに行き来出来る人だと私には感じられてくる。ふんわりと別の世界に足を踏み入れているような豊永さんが私は好きだ。

 

 豊永阿紀さん、懐かしい記憶、『耳をすませば』、と未知の場所を手繰り寄せるように考えていくと、豊永さんは知らない世界への導き手ではないかと多少強引ながら思えてくる。単に私が知らないだけかもしれないけれど、豊永さんは不思議な人だなと思う。わかるようでわからない、簡単に理解させてくれない捻くれさが豊永さんへの想像を広げさせてくれて、巡り巡って私にノスタルジーをもたらしてくれる。それは優しさだ。

 

 しかしこのような乱暴な想像が出来るのは私が豊永さんと遠いからであって、もしももっと近づくようなことになればまた考えも変わってくるかもしれない。遠いことが私の中の豊永さんのイメージを広く羽ばたかせている。これがいいのか正直わからない。

 

 遠いといっても12月23日のチームブルーの公演では豊永さんを間近で見て、忙しいスケジュールで疲れているだろうに、ステージ上の豊永さんは当たり前にかっこよかった。アンコール最後に歌われる私も大好きな曲『誰より手を振ろう』で、サンタの赤い服を着た豊永さんとバシッと目が合って、その瞳の強さに心を持っていかれた。しかしここに書いたように、ステージを離れた豊永さんも私にとって特別な存在になりつつあって、そんな様々な魅力がある彼女のことが好きだ。

 

 こんな感じで豊永阿紀さんについて考えるのが今は楽しい。そして豊永さんが書く劇はじが楽しみで仕方ない。私がブログを書くよりも筆の速度が速いので期待も大きい。どんな世界に私達を連れていってくれるのか上演を心待ちにしています。