鈴木絢音『光の角度』と記憶の旅

鈴木絢音さんの写真集『光の角度』を読みました。久しぶりに買ったアイドル写真集。何故ならもちろん鈴木絢音さんが好きだということもあるけれど、カメラマンが私も大好きで信頼している新津保建秀さんだからだ。私の好きな写真集をいくつか撮影している人だ。タヒチで撮影された写真集は絢音さんの様々な表情を捉えていて素晴らしかった。写真集は当たり前だけど動画ではなく写真なので、そこには音が無い。届けられるのは無音の旅。秋の夜、部屋でページをめくるその静謐な空気が絢音さんに似合っていた。

好きなアイドルと好きなカメラマンなので当然のように素晴らしい。日本を遠く離れたからか、高揚した気分とそれでも自分を見失わないよう抑制しているような揺れ動く絢音さんがいて、そこに新津保さんの淡々とした眼差しがまっすぐ向けられているのが素晴らしい。合間にタヒチそのものが挟まれているのも旅行記のようで私は好きだ。

写真には撮った人と撮られた人の、それぞれの撮影の瞬間、時間、空間の記憶が閉じ込められる。写真を通じて彼らがその記憶を呼び起こされるのは通常として、全くの他人で単なる通りすがりの私のような人がその写真を見ると、それはもう人それぞれなので様々なことを感じ取る。例えば絢音さんの表情が握手会で見た表情と一緒だとか、タヒチ行きたいなあとか、それは見る人によって千差万別だ。

私はこの写真集から遠い記憶を思い出した。それは鈴木絢音さんから遠く離れて、南国のタヒチとは正反対の彩度の低い北国での、寒く静かな冬の記憶だ。

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私が大学生活にも慣れてきた大学2年生だった頃、ある不安があった。このまま惰性で過ごしていたら無駄に時間だけが過ぎて大学生活が終わってしまうのではないかというよくある不安だ。何もしなくてもいいが何かしなくては今がもったいない、そんな焦燥感があった。当時の私は今よりもずっと意識が高かった。そこで私が思いついたのはありきたりだが海外に行ってみようというものだった。

思い立ったらあまり迷うことなく海外に行くことに決めた。行き先はボストン。西海岸より東海岸のほうが自分には合うと思ったからだ。春休みを利用しての1ヶ月間のホームステイ。ちょうど季節は冬で、冬のボストンは夏に比べて費用がかからないことも幸いした。パスポートも初めて取得した。準備している間は初めての海外の不安もなかった気がする。自分の中に勢いがあった。

私が訪れたタイミングのボストンは、ニューイングランドペイトリオッツスーパーボウルを勝って一息ついた祭りの後だった。またボストンはアメリカの中でも比較的治安の良い街という事前の情報だったが、滞在期間中に2件の殺人事件があって、しかもそのうちの1件は私もよく行っていたドラッグストアでの事件でちょっと怖かった。

もう遠い学生時代のことなのにボストンの思い出は今も鮮やかに覚えている。鮮やかといっても記憶の中の風景は雪とレンガと冷たい空気で占められていて、彩度の低い静かな風景だ。アメリカに行くにあたり初めてデジカメを買って写真も撮ったのだけど、もうその画像がハードディスクのどこに行ってしまったのかもわからず、現在は本当に記憶の中にしか私のボストンはない。

この初めての海外滞在で覚えたのはスタバと美術館巡りだ。ホームステイしている家に帰る前、駅に併設されていたスタバでよくラテを飲んだ。たぶん今までの人生でいちばんスタバを飲んでいた時期だと思う。これでもかとシナモンを入れて飲んでいた。注文に慣れていない私にアメリカのスタバの店員は優しかった。私はスタバをよく飲んでいたが、道行くアメリカ人はダンキンドーナツの大きいコーヒーカップを持ちながら歩いていた。

同じくアメリカで覚えた習慣は美術鑑賞だ。ボストンの美術館は学生証を見せると、どこも無料か安い学生料金で入ることが出来た。授業が終わっても放課後遊ぶ友人がいなかった私は、いろいろな美術館や博物館を見て回った。

ボストンで最も大きな美術館はボストン美術館である。とにかく大きな美術館で、数回行った私でも全部を見ることは出来なかった。全世界の美術品が集められていて、そのボストン美術館が誇る膨大な収蔵品の中でも有名な作品のひとつがポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』である。ゴーギャンの代表作であり、タヒチ滞在時に描いた作品だ。

ボストン美術館の売れっ子選手なのでよく貸し出されていて、私が滞在していた時にこの絵が久しぶりにボストンに帰ってきたということで大々的にゴーギャンお帰りなさいイベントが開催された。普段そこまで混んでいない美術館でも、このゴーギャンばかりは行列が出来ていたと記憶している。

それまでもボストン美術館で見たモネやターナー、エジプトの美術品などで自分の美術館体験がキャパオーバー気味に溢れていて、そこにゴーギャンが加わってもあまり感慨もなく、美術館側の盛り上がりとは裏腹に冷静に見ていたのを覚えている。絵は夏の日陰を思わせる仄暗い妖しさを帯びていた。

『光の角度』を見て、遠い昔のボストンを思い出した。2つを繋げたのはゴーギャンだが、私の記憶にも、写真集にもゴーギャンの影は微少だ。しかし写真集を見て感じる静けさと、記憶の中のボストンの冬の静けさが私には重なる。正反対の異なる2つの土地の風景が私の中で多重露光されて写される。それは強引かもしれないが、アイドルとの物語なんてどれもこじつけに近いのだからと言い訳しつつ、とても心地良い体験だ。

結局これはただの自分語りではないかと言われればそれはそうとしか返せないけれど、私の言葉を引き出してくれるだけの引力がこの写真集にあるわけで、それは特別なことだ。ほんのちょっとした偶然に運命を感じるのは若い人だけの特権ではない。

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結果的にそのアメリカへの語学留学によって英語が出来るようになったかといえば今はまったく喋れない。帰国して普通の学生生活に戻った私に残ったのは、言葉が通じない国でもなんとか生きていくことが出来るんだという不思議な自信だ。

その裏付けのない自信は今も続いていて、無理かもしれない状況をなんとかなるの精神で生き延びている。そしてそのぎりぎりの自信さえも折れそうなときに傍らにいてくれるのが鈴木絢音さんでありアイドルなのだろうと彼女らに感謝している。この写真集は、やる気に溢れていた昔の自分を思い出させ、今の私の背をそっと押してくれる。巡り巡ってこれは絢音さんのおかげだ。

私の記憶の扉を開ける鍵として『光の角度』に出会ったのだと思う。それは幸運な出会いだ。素晴らしい写真集をありがとうございました。

 

 

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