アイドルの演劇製作リアリティーショーとして見る #劇はじ

 HKT48 #劇はじ というオンライン演劇のプロジェクトを現在進めている。HKT48メンバーが演者だけでなく裏方スタッフ含めて全て担当するのが今回の特徴的な取り組みだ。もう運営は要らない。私達だけでやる。そんな気概がある。220日の初日を目指して絶賛稽古中だが、既に満身創痍といった状態。みんな頑張りすぎていて、倒れないでと祈っている。

 

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 SNSを通して日々作品作りの現在進行形の空気がこちらに伝わってくる。先日はそのドキュメンタリーの初回がYouTubeにアップされた。

 

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 公演の情報や裏話がSNSでたくさん発信される状況において、HKT48による演劇を楽しみに待つ気持ちよりも、HKT48が演劇を作り上げる過程そのものがコンテンツになってしまっている。それはオーディションや選抜発表というステージ裏もコンテンツにしてしまいがちなアイドルの、アイドルらしい演劇との向き合い方でもある。

 

 メンバーが任される役職はプロデューサーだったり演出家だったり、ほとんどのメンバーが普段では経験出来ない仕事をしている。これらもある意味演じているわけで、現実が物語になってしまっている。台本はないが、この役職ならばこう振る舞うべきだろうなと各々が考えて動いている。作品自体も劇中劇のような位置に置くことも出来る。現実が限りなく演劇的になり、私が見ているのは現実なのか物語なのか曖昧に思えてくる。

 

 同じような感情に最近なったなと思い出したら、乃木坂46の新曲『僕は僕を好きになる』のMVだった。どこまでも何かを演じているMVの中の乃木坂46は、当の乃木坂46だけでなく今のHKT48にも重なる。

 

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 ドキュメンタリー第0話の冒頭で、田島芽瑠さんは「48グループ自体がもう後退しているように思われてるけど」と述べているが、それはつまり秋元康的な価値観が時代にそぐわなくなったのであって、48グループも坂道グループも根幹に関わる部分なので立ち位置は同じだ。しかしそれでも乃木坂46は「演技」を通して、AKB48に代表されるアイドルの旧弊なイメージやコードとは別の視点からアイドルの良さを実践していると、最近読んだ香月孝史『乃木坂46ドラマトゥルギー』に書かれていた(読み違えていたらごめんなさい)。

 

 乃木坂46と同じことがHKT48でも可能ではないか。#劇はじ の宣言である「アイドルを、塗り替えろ。」は、乃木坂46の実践とも繋がってくる。#劇はじ という物語化された現実を生きることで、HKT48が変わっていくのではという予感がある。HKT48も以前から大人のカフェなどで演劇仕事をやっているが、#劇はじ でグループ全体を巻き込むことでどうなるのか。乃木坂46に倣うのがHKT48に相応しいのかはわからない。それでも #劇はじ はHKT48を塗り替える可能性を感じる。

 

 変わるのがいいことなのか、それはわからない。HKT48ぐらいの長い活動経験があると、変わらずに続けていくことの大切さも知っているだろうし。しかしドキュメンタリーでも田島芽瑠さんが言っていたように、「いま自分ができることを最大限に頑張っていかないと、このままじゃ普通に終わる」わけで、#劇はじ がそのきっかけになるのかもしれない。まあ何を今更自分のような新参に言われたくはないだろうけれど。

 

 ただし #劇はじ はドキュメンタリー第0話を見る限り、今後の展開も悩み苦しんでいる姿を見せて感動を誘うように予感されて、アイドルの苦しみを美化して消費する流れになったら辛いなと思う。正直、頑張っているから素晴らしいという賛美にしたくない。他にも、一歩間違うと自己啓発っぽくなってしまいそうなのが危ういなと感じている。

 

 一方で山下エミリーさんによるドキュメンタリー #エミはじ は淡々とだが優しさのある視点で #劇はじ を捉えている。どれだけHKT48 #劇はじ を演じようとも、アイドルの日常の延長上に彼女達は生きていることを #エミはじ は語っていて、エミリーさんの見守る視線に救われる。

 

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 #劇はじ を私はとても楽しみにしている。メンバー全員必死に頑張っているのがすごく伝わってきて、だからなのか、期待すればするほど不安も大きくなる。好きなアイドルが全力で作り上げたものがノットフォーミーだったらどうしたらいいのか。特に私は豊永阿紀さんが好きなので、『不本意アンロック』の脚本が自分に合わなかったらと不安で不安で、豊永さんも不安だと思うけれど私も不安です。なので祈るような気持ちで初日を待っている。

 

 とにかく #劇はじ が無事に成功することを願っています。

「推し」という言葉について、私は推していない

 そろそろ自分の気持ちを整理、言語化しておかないと流れに呑み込まれるなと感じたのでここに書き留めておきます(最初に思っていたより長文になって引いている)。

 

 「推し」という単語がポピュラーになってきた。どこもかしこも「推し」だ。しかし私は「推し」の単語自体に距離を置いている。なるべく使わないようにしている。自分はアイドルオタクで、アイドルが好きではあるが、「推し」ているつもりはないからだ。

 

 ただ「推し」が使い易いのはわかっているので、誰かとコミュニケーションしなければいけない場面では相手に合わせるために使ってしまう。本当は「推し」という単語が苦手なんですけどとか注釈したいのを我慢しても、今は使うメリットのほうが大きいように思う。

 

 いつから「推し」を目にするようになったのか。もうすぐ映画が公開される『あの頃。』に関連して、『あの頃。』の時代は「推し」という言葉はなかったのではないか、そんな意見をいくつか目にした。これは観測範囲の違いもあるだろうけど、私も「推し」という2文字だけの単語はなかった気がする。しかし「推し」はなかったが、「推しメン」や「1推し2推し」という単語はあったし私も使っていた。そのような小さな違いしかないので、もしかして自分の知らないところでは「推し」が使われていたかもしれない。全然知らないけれど、二次元界隈などではとうの昔から「推し」が使われていたかもしれない。

 

 私が「推し」という単語を頻繁に目にするようになったのは、数年前、私が若手俳優オタクのブログをよく読んでいた頃だ。それは若手俳優その人に関するブログでもなく、どのブログも若手俳優のオタクの生態を記した自分語りのようなブログだった(自分がそういうのを好んで読んでいただけです)。若手と付いているように、まだ人気が出ていない俳優も多く、そのような俳優の界隈は小さく、オタクが特定されやすいらしい。なので特定を避けるために、自分の好きな俳優の名前を隠して「推し」と表現していた。自分の推している俳優の名を隠してまで何かをアピールしたい(それは自慢だったり愚痴だったり様々)、その屈折した欲望に興味を持ってよく読んでいた。

 

 「推し」という単語を使うには第三者が必要だ。誰かに伝えるために「推し」を使う。結局私は、誰かに伝えなくてもいいと思っているから「推し」の必要性を感じていない。私が書くブログも、単に自分自身の記録のためだし、ほとんど壁打ちだ。私が何かを好きであることは書きたいが、好きな何かを広めたいみたいな気持ちはない。そこに第三者はいない(稀にそうではない記事はありますが)。

 

 昔から私のアイドルとの向き合い方は一対一だ。私とあなた(アイドル)しかいない。極論を言うと、あなたと向き合っているときの私にはアイドルはあなたしかいない(だからアイドルの握手会などで他のアイドルの話題も本当は出したくない)。みんなで応援しようみたいな気持ちもない。社会性のない人間が世間の荒波に溺れそうになりながら辿り着いた末のアイドルオタクなので、趣味ぐらい個人で自由にやりたい。オタク同士たまたま同じ方向を向くにしても、敢えて協力してということはない。自分が対象を好きなこと、それだけで十分だと私は考えている。

 

 したがって第三者はいないと考えている私には「推し」を使う場面がない。たとえあったとしても、そこで使うのは「推し」ではなく好きな対象そのものの名前であってよい。推しが尊いのではなく◯◯さんが尊いのだ。「推し」で匿名化することで誰でも話が通じるようになるのはいいかもしれないが、オタクの熱量が漂白されたようでもあり寂しくなる。

 

 自分で書いていても自分が面倒くさいなと思うし、オールドスタイルのアイドルオタクなのは自覚している。しかしカジュアルに「私の推しは~」みたいに話せるほど軽くはなれない。個人的に、アイドルを好きなことはもっとドロドロしている。いや、私は軽く使っていないという人ももちろんいるだろうけど、ポピュラーになればなるほどそこには軽薄さがつきまとうし、自分はその軽さから距離を置きたい。

 

 とはいっても「推し」が使い易いのは認識していて自分もたまに使ってしまうし、複雑だ。おそらく時間の問題で、私もカジュアルに「推し」を使う日が来るんじゃないかなと予感している。そうなった時に葛藤があったことを忘れないために今ここで記録しておきました。

『ポーの一族』、より人間的なアランと、より人でない存在になったエドガーについて

 『ポーの一族』をライブ配信で観ました。素晴らしかった。千葉雄大さんのアランは明日海りおさんのエドガーと対等に渡り合っていた(と書くこと自体がいいのかどうか私は迷った)。そしてやはりというか当然というか、エドガーが異次元の別格過ぎてやばかった。

 

 私は宝塚花組の『ポーの一族』を観たことがあるのでどうしてもそちらと比較してしまうけれど、どちらも素晴らしいのは大前提として、やはり違いはあった。今回の作品は、より人間みのある作品に私は感じられた。どうしてだろうと、男役は男の俳優が演じているからかなとか、いろいろ考えたのだが、性別や年齢ではなく宝塚か否かという点が最大の理由ではないかと最終的には落ち着いた。

 

 通常の演劇は客席の私達の現実世界と、舞台の上の作品世界がある。対して宝塚は、私達の現実世界と作品世界の間に宝塚の世界がある(ように私は感じられる)。そのとき、私達は宝塚の世界を通して作品世界に触れる。それによって作品の非現実具合が増して、宝塚だから何でもありだなというふうに作品を受け入れる。

 

 その非現実度が高い宝塚の『ポーの一族』を観た後に今回のを観たので、レイヤーがひとつなくなって、より人間みを感じられる作品になったのではないかというのが自分の考えだ。

 

 その人間らしさを感じさせる代表的存在が千葉雄大さんのアランだった。花組では、エドガーに劣らずの宝塚的なアランを柚香光さんが演じていたが、今回の千葉アランは限りなく美しいがどこまでいっても人間的な存在で舞台に立っていた。それによって、明日海りおさんのエドガーのこの世の者でないような妖しい輝きを際立たせていた。美しい組み合わせだった。

 

 私は明日海りおさんのエドガーが大好きなので、配信を観ながら、ずっとエドガーの美しさにやられっぱなしだった。特にエドガーの人を想うときの表情が素晴らしく、永遠の旅の友にアランを思い浮かべたときの瞳がため息出るばかりの美しさだった。

 

 配信だと細かい表情まで見れてよいですね。東京で花組を観たときは2階席の後ろのほうだったので、表情もあまりよくわからないけれどとにかくすごいすごすぎるという感想だった。それが配信で観ると、感情の機微もよくわかって全てが素晴らしいという気持ちになった(とはいっても劇場で観るのがいちばんよいのですが)。

 

 まだ公演は続くけれど、最後まで無事完走してほしいです。素晴らしいミュージカルをありがとうございました。

2020年まとめ

 2020年は東京を離れて福岡に引っ越したことがいちばんの大きな変化だった。自分頑張った。東京で人と会わない生活を半年ぐらい続けてみて、案外大丈夫だと気付いたので遠距離の引越しに踏み切ってみた。福岡で3ヶ月暮らしてみて、予想通り結構ひとりでも生きていけるのではと思い始めているが、今後も同じ気持ちでいられるかはわからない。アイドルオタク的な趣味は、avandonedが終わったことで自分の中の一区切りがついたので東京を離れることに躊躇いはなかった。しかしまさかのまさか、このタイミングでHKT48にハマるとは引越し前には想像していなかった。やっぱり地元に住むと愛着が湧いてきますね。豊永阿紀さんに感謝。

 

 以下、2020年良かったものなどつらつらと。

 

徳利『REVOLUTION』

RAY『Pink』

RYUTist『ファルセット』

ユレルランドスケープ『夏の果て』

tofubeats『RUN REMIXES』

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avandoned『出雲にっき生誕祭 わんきゅう!!』

STU48『僕たちの恋の予感』2020/3/21配信限定公演

ハコイリ♡ムスメ『ハコイリ♡ムスメの定期便、最終章~永遠の宝バコ~』

RAY『birth』

RYUTist『ファルセットよ、響け。』

HKT48『西日本シティ銀行HKT48劇場オープン記念公演』

HKT48HKT48晦日スペシャルイベント~やりたかったあのライブ~』

インターステラー』@グランドシネマサンシャイン

W・G・ゼーバルト『移民たち』

鈴木絢音『光の角度』

くどうれいん『うたうおばけ』

今年は既に持っている本を再読することが多かった。

 
 
 
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神戸の喫茶店思いつきが素晴らしすぎて感動。

 
 
 
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出雲にっきさんによる気仙沼の香りのするZINEを手に入れる。

 
 
 
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RAY月日さんの机を譲り受ける。

 
 
 
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甲斐心愛さんshowroom毎日配信。

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noteからはてなブログに出戻り。

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HKT48、そして豊永阿紀さんをますます好きになる。

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 以下ツイッターのいいね欄から。

 

 

 

 

 

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tahi.hatenablog.com

 

 

 

 これまで以上に離れていても助けられることの多い1年だった。今年もたくさんお世話になりました。皆さまよいお年を。

 

 

 

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甲斐心愛さんに光を見た話

 アイドルを見る理由、この瞬間に出会うためにアイドルを見続けているといっても過言ではないシーンが、アイドルオタクを続けていると稀に訪れる。その一瞬に出会うために私はここにいる、強いては私が生きているといったら大袈裟だけど、そんな場面に私は今年も出会えた。

 

 それは画面越しの一瞬だった。2020321日、無観客で行われたSTU48『僕たちの恋の予感』配信限定公演、その本編最後の曲『この涙を君に捧ぐ』でのことだ。2番サビを歌い終わって間奏に変わる瞬間、1列目にいた甲斐心愛さんが両手を広げる振付で、ほんの気持ちだけ胸を張った。

 

 意識してか無意識か、心愛さんのちょっとしたこの動作に彼女のアイドルとしての心構えのようなものを感じてしまい、私は感動してしまった。私はアイドルとして生きていくぞといったような宣言にも受け取れて、それはこちらの勝手な妄想だけど、その瞬間の心愛さんは光だった。

 

 今読んでいる小説ではないけれど、出会う光が灯台となって私の霧に隠れた不透明な人生を照らしていく。それは彼女から自然に出てきたものだからこその輝きで、それ故に揺らぐことなく遠くまで届き、彼女の灯りに導かれるように私は今日も生きている。実際その瞬間の心愛さんを毎朝見てから仕事に向かっていた。彼女のほんの僅かな動きが私を大きく救っている。

 

 心愛さんのかっこいいシーン可愛いシーンはたくさんあるけれど、これほどさりげなく彼女の美しさを表したシーンはそうそうない。そんなことを考えていたら、偶然にも数日前の心愛さんのshowroomで本人によるダンスの見所解説があって、私が思っている以上に心愛さんは意味を考えながら踊っていることを知れて有難い配信だった。神は細部に宿るということを心愛さんもわかっている。『思い出せてよかった』の右手が記憶だという彼女の解釈が素晴らしくて、これからも心愛さんの細かな動きにもっと集中して見ていきたい。

 

 そんな感じで2020年も甲斐心愛さんに救われた1年だった。本当にありがとう。

 

 

 

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豊永阿紀さんと懐かしさについて

 何もない時間、何をしてもよい時間にHKT48豊永阿紀さんについて考えを巡らしていると、懐かしい記憶がふと思い出される。懐かしい記憶といっても、それは現実の記憶だけど限りなく幻想の世界に近しい記憶だ。思い出というほどでもなくただの風景、空気、温度、光といった感じで、それは記憶としか言いようがない。以前もそのような記憶がふと甦ることがあったけれど、豊永さんからはその記憶を強く引き寄せる不思議な雰囲気があることに最近気付いた。

 

 思い出すのは主に中学生ぐらいの時の記憶で、友達と遊んだ後の春の夜の生温い空気の少し浮かれている帰り道とか、誰もいない夏の午後の田んぼ道を自転車でゆっくり走っている時の静けさとか、季節と思春期が作り出した、思い出しても二度と経験出来ないセンチメンタルな記憶だ。それは私を感傷的に、心穏やかにさせてくれる。現実だけど幻のような記憶は当時観た映画ともシンクロしていて、なんだか本当に夢現つの風景でもある。その映画は『耳をすませば』で、初めて映画館でリアルタイムで観たジブリ映画だ。

 

 豊永さんをきっかけに思い出す、豊永さんとは全く関係ない私だけの記憶は、『耳をすませば』の世界観が浸食していて少し現実離れしたフィルターが掛かったかのようだ。

 

 『耳をすませば』は完全にファンタジーでもなく、現実世界と地続きのファンタジーだ。関東平野の端っこの真っ平らな街で生まれ育った私には、この映画の舞台となった坂の多い街がとても魅力的に映り、調べたらその街は東京の聖蹟桜ヶ丘だとわかって、おかげで東京で暮らしたいと憧れるようになった。それと共に画家の井上直久が描くイバラードがベースとなった主人公雫が作る劇中世界も素晴らしくて、話の内容よりも映画の舞台や映画の中の世界に引き込まれた覚えがある。

 

 もちろん豊永さんは雫ではないけれど、劇はじで脚本を書く豊永さんは雫と同じく世界の作り手でもあり、安易に二人を重ねてしまいそうになる。そう考えれば考えるほど、豊永さんは自分の世界をたくさん持っていて、いろいろな世界を軽やかに行き来出来る人だと私には感じられてくる。ふんわりと別の世界に足を踏み入れているような豊永さんが私は好きだ。

 

 豊永阿紀さん、懐かしい記憶、『耳をすませば』、と未知の場所を手繰り寄せるように考えていくと、豊永さんは知らない世界への導き手ではないかと多少強引ながら思えてくる。単に私が知らないだけかもしれないけれど、豊永さんは不思議な人だなと思う。わかるようでわからない、簡単に理解させてくれない捻くれさが豊永さんへの想像を広げさせてくれて、巡り巡って私にノスタルジーをもたらしてくれる。それは優しさだ。

 

 しかしこのような乱暴な想像が出来るのは私が豊永さんと遠いからであって、もしももっと近づくようなことになればまた考えも変わってくるかもしれない。遠いことが私の中の豊永さんのイメージを広く羽ばたかせている。これがいいのか正直わからない。

 

 遠いといっても12月23日のチームブルーの公演では豊永さんを間近で見て、忙しいスケジュールで疲れているだろうに、ステージ上の豊永さんは当たり前にかっこよかった。アンコール最後に歌われる私も大好きな曲『誰より手を振ろう』で、サンタの赤い服を着た豊永さんとバシッと目が合って、その瞳の強さに心を持っていかれた。しかしここに書いたように、ステージを離れた豊永さんも私にとって特別な存在になりつつあって、そんな様々な魅力がある彼女のことが好きだ。

 

 こんな感じで豊永阿紀さんについて考えるのが今は楽しい。そして豊永さんが書く劇はじが楽しみで仕方ない。私がブログを書くよりも筆の速度が速いので期待も大きい。どんな世界に私達を連れていってくれるのか上演を心待ちにしています。

 

 

 

 

ふしぎの海の阿紀ちゃん

私が出会う豊永阿紀さんはいつも青く染まっていて、その果てしないほど広く深い大海をもっと知りたくて、私は船を漕ぎ続ける。

豊永さんは『ONE PIECE』を好きだと朧げに覚えているけれど、私の『ONE PIECE』知識は海賊の物語ということぐらいで申し訳ないので、海といえばナディア、『ふしぎの海のナディア』からタイトルを付けさせていただいた。久しぶりに主題歌の『ブルーウォーター』を聴いたけどいい曲ですね。

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HKT48が虹の七色をイメージしたユニットに分かれて2組ずつ公演する博多なないろ公演。私は2回続けてチームブルーの公演を見た。別にブルーに限定して申し込んでいるわけでもないのに当たるのはいつもブルー。豊永阿紀さんがいるのもブルー。所謂これが運命なんですよ。

1ヶ月ほど前のnoteでも書いたが私は豊永阿紀さんが好きだ。でもまだ私は阿紀ちゃんと呼ぶことに躊躇いがある。タイトルで阿紀ちゃんと書いたが気恥ずかしい。阿紀ちゃんとちゃん付けで呼ぶことで、彼女がアイドルであることを認める関係になるのはわかるとしても、私はまだ軽々しくちゃん付けで呼べない。もう最初から重い。

豊永さんのことは昔から興味を持っていたし、以前のnoteに書いたように握手会に行ったこともある。2ショットも当たったことがある。しかしいかんせん当時私の住んでいた東京と豊永さんのいる福岡の距離が私に二の足を踏ませていた(それを言ったら広島に住む甲斐心愛さんも遠いけれど)。そもそもアイドルは遠い存在であるのに、遠いことを理由に躊躇うのはなんだかおかしい。だけどそれほど今のアイドルは身近な存在を売りにしてきてしまったのかもしれないし、私もそれに毒されている。

福岡に引越したことによって、私の中の抑えていた好きという感情が自然と解放されていった。幸運なことにステージに立つ豊永さんを何回か見ることも出来た。私はアイドルが歌って踊っている姿を見るのが大好きなので、豊永さんのパフォーマンスをこの目でやっと見られて感激した。

遡って、私にとって印象深い豊永さんは去年2019年のTIFスマイルガーデンでの豊永さんだ。偶然見た彼女は夏を全力疾走している表情を見せていた。それは本当に歌とダンスが好きなんだろうなと伝わってきて、最高にアイドルだった。

 

映像などでなんとなく接するのではなく、ちゃんと豊永さんを見たのは先月からだ(本当にちゃんと見ているのか怪しいけど)。そしてこれは誰に対しても言えることだが、劇場で生で見る豊永さんは情報量が桁違いに多い。一気に自分の中の豊永さんの解像度が高くなった。

豊永さんのダンスはバシッとこちらにまっすぐ届いてくる。それはもう本当に迷いなく。上手いかどうかは私にはわからないけれど、とにかく私に対して直球ストレートでぶつかってくるので、キャッチャーミットがいい音を出すように私も快い気持ちになる。新劇場柿落としでの『しぇからしか!』などはその最たるものだった。チームブルーでも『アイドルの王者』や『ぶっ倒れるまで』での、私はアイドルだと誇らんばかりの晴れ晴れしい笑顔が最高だし、『夜空の月を飲み込もう』でのかっこいい豊永さんも最高だ。豊永さんのくしゃっとした笑顔最高ですよね。

以前より見る機会が増えて、では詳しくなったかというと全くだ。豊永さんは知ろうと思えば思うほどわからないことが増えていく。私みたいな薄っぺらい人間がステージに舞う塵に見えるほど、彼女の内は広く深く、大海のように感じる。全然わからない。だからこそ見ることが楽しい。常に新しい豊永さんがそこにいる。

もちろんそれはステージだけではない。SNSを通じて触れる豊永さんは、理解したと思えば、オタクの傲慢な手からするりと抜け出すような、ある意味意地悪な性格を垣間見せる。とても強かで迎合し過ぎないところが、何でも流されがちな自分には眩しく見える。

豊永さんのような人に出会う度に、私は秘密を抱えている人が好きだということを再確認する。いや、誰しも秘密ぐらい持っている。しかし秘密を持ちそれを守ろうとする精神が美しいと自覚、もしくは本能的に察知している人が世の中には存在していて、その人達の凛とした佇まいに惹かれる。ここから先は絶対に侵させないぞという強い意志が、人としての強さを生んでいるかのようでもある。それは永遠に咲かない蕾みのようで、大切なものを秘めた美しさだ。まだまだほんの少ししか知らないけれど、豊永さんにもその気配を感じる。

今はshowroomSNSなどで、何でも開けっぴろげにコミュニケーションするのが良しとされている(それはそれで公開してよいプライベートでしかないけれど)。でもそうではないよ、秘密を抱いた人は魅力的だよと、私はよく思う。

とは言え私はSNSに流れてくる豊永さんの様々な表現が大好きだ。言葉にならない気持ち、写真に撮るしかないものが彼女の写真に宿っているようで、それを感じ取りたくて何度も見返してしまう。豊永さんの文章も好きだ。ブログのようなある程度長い文章のほうが、豊永さんらしいまっすぐな心情がそのまままっすぐな文章になったり、また捻くれた感情が捻くれた文章のまま出てきたりして、長くても読んでしまう。相当昔になるが、高校卒業のときのインスタの詩のようなテキストを私は今もたまに読み返す。豊永さんはアウトプットの量も多いけれど、いろいろ出せば出すほど彼女の中の綺麗な芯の存在に触れられないけど気付く。そしてそれは誰にも触れられないから輝いているのだ。

とまあ、こうくどくどと書いたところで本人からしたら全然違うよと肩透かしを食らう可能性もあるわけで、でもそうやってずれが受け取る人それぞれに生じることで彼女の魅力が彼女の思っている以上に広がる、と想像するのは都合が良すぎる考えだろうか。アイドルにありがちなイメージのずれで傷ついてほしくないけれど、ならばこういう文章も不安でしかないので難しいところだ。

まとめる前に蛇足だけど、私はアンジュルムを好きな人はその一点だけで信頼してしまう節がある。私も根っこはハロプロなのでアイドルに対するベースの部分で通じ合うものがありそうな気がして、そこも好きになった一因かもしれない。しかも豊永さんはたけちゃん推しとのことで、私の知っているたけちゃん推しは皆やばいのは何故なのか…(サンプルは豊永さん含め2名)。

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今はただ豊永阿紀さんを見ていることが楽しい。認知が無くても楽しい。東京で燻っていた初期衝動がここにきて解き放たれている。あまりにもオタク3日目と言うしかない熱量なので、自分でもオタク3日目を演じているのではないかと疑いたくなるほどだ。しかしこの熱量がいつまでも続かないことは自分の性格上わかっているので、この熱さの中で見れる景色を大切にしていきたい。

福岡での新生活を楽しく過ごせているのは豊永阿紀さんとHKT48のおかげだ。楽しい日々をありがとうございます。次に出会える日、そしてごりらぐみを楽しみにしています。

 

 

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